霜月祭とむら人のくらし

昔から遠山の霜月祭がはじまるで、「天気が荒れるぞ」とよくいわれました。

たしかに、そのころになりますと、急に寒さがきびしくなって、雪やみぞれの

ふる日が多くなります。

お祭りが近くなると、むらのしゅうは、お祭りまでにやっておかねばならない

ことが、たくさんありました。

ハザにかけた大豆や、アズキも、片づけなければなりませんし、また、つけ菜

の準備、いろりでたくたき木の用意もしなくてはなりません。

 それに年に一度のお祭りですから、やぶれた障子のはりかえやら、子どもた

ちにもお祭りの着物一枚くらいは、作ってやりたいし、何やかでどこの家でも、

てんてこ舞いでした。

 また、ふとんをしょって、出かせぎに出ていた人たちも、お祭りにはかならず

帰ってきました。

子どもたちの、何よりのたのしみは、祭りの晩は、境内にたくさんお店がならび、

日頃ほしいと思っていたおもちゃなどが買ってもらえることでした。                                             

さて、この霜月祭が、はじめて本にのったのは、江戸時代の寛政・文化(一七

八九〜一八一六)のころです。

その本は「玉勝間(たまかつま)」という本ですが、本を書いた人は、有名な国学者だ

った、本居宣長でした。

本居宣長は、「玉勝間」のなかで、霜月祭について次のように書いています。

 しなのの国のある村々のまつりにうたう歌。

ある人が言うには、しなのの国の天竜川の川上なる、かどむら、わだ、きざわなど

という里のおまつりに、湯かまに湯をわかし、にえ立たせ、そのまわりにゴヘイを

立ておき、夜がふけるとそのかまのまわりに、このさとびとおおぜいあつまり、男

も女もそしておとしよりも、若い人もみんないっしょになって、そのゴヘイを手に

もってうたう歌。

お湯を召すときのナ、おみかげこぐそ、おみかげこぐそ、やくもだのぼれ、のぼれ ″

 寛政・文化の時代に、本居宣長がこの山深い遠山の祭りのことをきいて、心をうご

かしたことが、このことによってわかります。

 さて、遠山の霜月祭は、「一度見ぬ馬鹿、二度見ぬ馬鹿」と昔はよくいわれたそう

です。

しかしこの頃は、霜月祭のみりょくにとりつかれ、毎年祭りの頃になるとやってくる

人が多くなりました。

 この霜月祭は、昭和五四年に、国の重要民俗無形文化財に指定されております。

これは霜月祭が、文化的にもまた、歴史的にもたいへん価値のあるものだということ

です。

 わたしたちは、このような貴重な文化資産を残してくれた、祖先の人たちに心から

感謝すると同時に、遠山の人たちの心のよりどころとして、いつまでもだいじにして、

次代に引きついでいきたいものです。


 霜月祭の神事